「無駄」と「遊び」について

2007.10.21|magronbass|PHILOSOPHYPermaLinkComments (2)

エバンスのスレで、シュウゴが「無駄」と「遊び」についてコメントしたので、それにまとめた考えを書いたんだけど、長くなったから新しい投稿として。

無駄と遊びか。 遊びの一部が無駄であるというのが個人的な整理のしかただけど。 前に池ポンのゲームのスレで話が盛り上がったけど、遊びってのは、結果的には関門があって、それに対して挑戦するということが根本にあると思う。 ゴールに到達するためには、数々の難関を突破して、正しい判断を下し続けないといけない。 現実世界とのパラレルではあるけど、遊びの世界は単純化されていて、しかもその世界は努力をすれば勝てる秩序の上で成り立っている。

大きな枠では、「遊び」は「努力すれば成功できる世界のなかで、努力をして、成功する」ということが、有意義な経験・体験になるか、「無駄」になるのかは遊び本体+本人次第である。

まずは遊びの質。 遊びは「世界の秩序」とそれに内在する「挑戦」によって構成されるとして、それらのバランスで遊びの質を考えれると思う。 遊びの世界の秩序が、現実世界とのパラレルであったり、現実に結び付けることができる秩序、道徳的な秩序など、その秩序から学べるものがある場合は質がよいとする。 逆は当たり前だけど、破壊的な発想を助長したり、努力と成功が無関係であったり(運試し=純粋なギャンブル)、秩序の意図がはっきりしない場合は質が低いと思う。

「挑戦」に関しては、多少秩序に依存すると思うけど、人生の目標設定と似ていて、「難しすぎず、簡単すぎず」ってところだと思う。 単純にものを拾ったり、色に反応したり、形状に反応したり。 単純な刺激に反応するだけの内容では、「良い」遊びではないと思う。 「無駄」な遊びであって、エンタテーメント性は高いかもしれないけど、結果的には「無駄」だと思う。 逆に、遊びが難しすぎて、それを学習すること自体が負担になるのであれば、それは「遊び」の領域を超えて、「作業」になってしまうと思う。 そして、その「作業」をこなすことによって、なにかが生産されるのであればまだしも、ほとんの場合は遊びからはなにも生産されないので、これもまた「無駄」になると思う。 ただ、難しいけど、その作業行程から本人がそれに費やしている労力以上のなにかを得ることができれば、それは「無駄」にはならない。(アニメーターになるオタクと、なりたいけど、単なる優秀な消費者になってしまうオタク…とか)

つぎに、遊びの質意外に、当本人の問題もある。 遊びは文字通り、エンタテーメントであるので、それに没頭する。 ただ、没頭して、終わったらなにもその体験から持ち帰らないのは「無駄」になると思う。 その経験を振り返って、なんらかの感想を抱き、こうしたいな、とか、自分だったらこういう風にやりたいなとか、なんらかのインスピレーションとして消化できるとすばらしいと思う。 その場限りの遊びは、無言で酒をひたすら飲む、飲み会と一緒だと思う。 遊びの質がある程度以上だとして、そこからなにかを持ち帰るかどうかは、本人次第だね、結果的には。

遊びの効用について。 遊びの質が高いとして、現実世界のなにかにつながるとすると、ある意味、「シミュレーション」の世界での成功や失敗を体得していることになる。 状況は違うにせよ、比喩的につながっているため、遊びで得た経験や感触(体得的な、kinesthetic学習等)を使うことができる。 その上、遊びの制限された世界での成功をもとにした、自信や安心などの心理的な効果も大きいと思う。 それとは別の方向で、「遊び」の空間はコントロールされている空間であるがゆえに、普通だったらあり得ない刺激の量を作り出せたり、普通ではありえないシチュエーションだって作り出せる。 そういった、現実を超越した体験をインスピレーションに、創造・発想をすることができる。 刺激の許容量は創造活動に大きく影響すると思うし、遊びはその許容量を拡大できる非常に便利なツールだと思う。 人間はみんなそれを無意識的にやっていると思うけど、やっぱり上手下手はある。

最後に言えるのは、結局人生が「努力すれば勝てる」と思っている限り、人生自体が遊びになり、エンターテメントになる。 ま、実際のところ、人生「遊び」でかかるわけにはいかないので、それが「遊び心」に重要さなんだと思う。

Posted Comments

主観的な定義ならなおさら、どこからが無駄か、という基準も分からない部分はあるんじゃないかな?無駄と思っていても、それがその後どこかで役立ったり、何かと繋がるきっかけになってたりすることもあるわけだし。
しゅうごの聞きたかった「遊び」と「無駄」の違い「遊び」は何を指しているのだろうか。例えばハンドルの「遊び」とか、余剰な部分を「遊び」と言ったりもするよね?そのアナロジーを他の事項に適用した場合、「遊び」と「無駄」の分け方が難しいってことなんじゃないか。オーバースペックだと無駄だけれど、ちょっとした「遊び」があった方がフレキシブルだ、とか。
そう考えると「遊び心」というのは、余裕・ゆとりといった類いの意味合いになってくるんじゃないか。新しいこと(エラーとも言える)への対応力と、新たな創造へと繋がるきっかけが得やすくなる。目的を達成するだけなら不要だから、見方を変えれば無駄とも言える心構え、或いは価値観と言ってもいいかもしれない。

2007.10.21|taku

ふむふむ、「遊び」と「無駄」を同系統とした場合ってことか。 確かにね、定義によって話は変わってくる。 オレが書いた方だと、主観判断はさておき、とりあえずは採取的に「使える」「使えない」というのが判断基準かな。 「刺激の許容量」って部分は、タクの言うゆとりって方向に展開できる。 遊びでゆとりをもっておいて(必要以上のものを頭・心に蓄えておく)ひょんなときにそれが出てくる、みたいな。 ただ、そこまでの価値がない遊びってのは、本当の意味で無駄な気がする。 ってか、そもそもそういうのは本当の意味での遊びではないのかな。 一過性の強いを遊びってすり替えてる部分って、あるよね。 クスリとか、デスメタルとか。 そこからなにかを汲み取るのは本人次第ではあるけど、きわめて難しいと思う。

でも、最終的にはやっぱり本人次第かな。 どんなにすばらしい体験をしても、「はぁ、奇麗」とか「すごいね」で終わってしまう人も多いしね。 豚に真珠というか。

そもそも「無駄」というのも定義を細かくすると、オレの言ってる「無駄」というのは機能的に不必要な部分、使えないものだよね。 余分・余裕としての「無駄」は、確かに、ひたすら集めておけば、いつか使える可能性はある。 ま、これも使うかどうかは本人次第か。

でも、大きな意味では、「音楽から音楽を作らない」みたいな考え方がタクの言ってる事を実践的にしめしているよね。 時間がある場合は、音楽以外のことをやって、それを音楽に生かす、みたいな。 実際、心のゆとりがないと、創作活動なんてする気が起きないし。 経験も、情報もそうじゃないかな。 毎日をこなすのに精一杯の知恵と情報じゃ、余裕がたりないよね。 だから無駄なものもいっぱいオツムにつっこんでおかないとね。

あ、でも、その無駄な情報をつなぎ合わせて、自分のモノにする技術も同時に習得してないと、よくいる豆知識バカになってしまうかな。 無駄なものをたくさん蓄えておくって、一歩間違えると、辞典になっちゃうよね。

2007.10.21|ken

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