ジャーナリストの殉職

2007.09.28|ikeponia|SOCIETY・GOVERNANCEPermaLinkComments (10)

これは、特に初期段階のメディア寺子屋等でジャーナリズムの追究もしてきたフェイス的に、
取り上げなければならない話題かと思った。

ミャンマーの政変で、APF通信社の長井健司氏が銃弾に倒れたそうである。

ミャンマー:カメラマンの長井健司さん、取材中に死亡」毎日新聞


何がそこまでさせるのかは人それぞれだろうが、
好奇心なのか、使命感なのか、
とにかく、ジャーナリストの現場を探る執念には常に脱帽である。

例えば、PHOTOジャーナリストの写真展などに行くと、なぜにここまで近接した情報が
得られるのだろうか?とか、戦場での少年兵士の笑顔なんて、ちょっと行って
撮れるものじゃないのに、恐怖心の中でカメラを回したって撮れるものじゃないのに、
なぜ、少年はカメラマンに心を開くのだろうとか、驚きの連続である。
そして、その絵の儚いまでの美しさに感嘆してしまうのである。

そこまでしなくてもいいのに、というのが一般的な感想なのだろうと思うが、
でも、そうまでしないと真実に触れることが出来ないのが現場なのだろう。
誰だったか、ジャーナリストの方が昔言っていた言葉として、
「戦争は嫌いだし怖いけど、でもそこに戦争があるから自分は行かなくてはならない」
と言っていた。

今回の長井氏が倒れた経緯の詳細は分からないが、
ジャーナリストとしての危険と隣り合わせな生き様のようなものを改めて痛感する。
そして、長井氏のみならず、きっと中東情勢の中で、
日本人じゃないからという理由で情報が入ってこないだけで、
多くのジャーナリストが職を全うする中で命を落としていることだろうとも思う。


長井氏のご冥福を祈るとともに、
他のジャーナリストの方も、お気をつけてという安易な言葉ではもはや
言い表せないので、ただただご幸運を祈るばかりである。

Posted Comments

ジャーナリズムね。 ダイビングの写真を取ってるときに考えるね。 コズメルとか、特別な場所にいくときは特に。 もちろん、戦争とダイビングじゃ訳が違うけど、即死できる環境という意味では、
「おとなりさん」ぐらいの関係だと思う。(ん〜、同じ団地程度かな)

ま、危険性はさておき、「ほとんどの人が死ぬまでに目にすることのない場所」という感覚は、確かに、「伝えたい」という気持ちにつながる。 ただ、ジャーナリストの場合はそれが仕事だから、気持ちの高揚がものを言っているわけじゃないので、かなりシビアな世界だと思う。

ジャーナリズムって、結局、二つの世界の視点を行き来できる技術なんだと思う。 戦場の第一人者の価値観だけしか理解できなければ、それは軍人だし、茶の間でせんべい食べてるおばさんの価値観だけであれば、それは視聴者。 視聴者の価値観で戦場を見れる技術ってのが、ジャーナリズムなんじゃないかな。 で、同時に戦場での価値観(生存技術)も持っている、みたいな。

この大きな意味だと、価値観の違いを埋め合わせている人はいろんな場所にいるわけで、それが無ければ世界の価値観を両極に固まってしまうと思う。 世界の価値観をかき混ぜてる感じだよね。

もっと根本的なレベルでは、「考えを変える」ってのがあるんじゃないかな。 変化を誘導するために新しい情報を提供したり、既成の考えを再構成したり。 それって、万人が日常的に行ってることで、大きな意味では、全員がジャーナリスト=世界の価値観を変える可能性を持っていることになる。 問題は、それをどう使うか、だよね。 それを使って戦争を起こす人もいれば… って循環になる。

2007.09.28|ken

またまた、語源の話をしてしまうけど、ジャーナリズムはラテン語の「ディウルナ」(原意・ひごとの)から来ていて、要するに「日々の」という意味なんだよね。ローマ共和国における日刊情報誌が発端だとか…。日記もジャーナルって言ったりするし。

そういう意味で言うと、日常を生きている人たち全員がジャーナリストになりうる。それぞれの日常はそれぞれにしかないわけだから。その日常を記録するということがジャーナリズムの基本で、イデオロギー的な要素はそもそも入っていないのではなかろうか。ただ、現実的には取材者の視点がどうしたって入り込むわけで、有りのままというわけにはいかないのだろうけど。

世界を変える可能性はあるにせよ、それを受けた人が感じて行動に変化を起こさない限り、世界は変わらないのだから、ジャーナリズムだけではやはりダメなのかもしれない。世界への関心、他人への関心、未来への関心、それを呼び起こす力が必要だと思う。

ただ、真実(ありのまま)を伝えるからジャーナリズムは信憑性があるのであって、それが権力やイデオロギーと結びついた途端に、胡散臭くなるので、ジャーナリズムは純粋であって欲しいとは思う。そこから主義主張へと結びつける役割は、別立ての方が健全なのではないかなと。新聞で言えば、記事と社説ははっきりと切り分けるみたいな。(そもそも新聞に社説が必要なのかどうかという議論もある)

2007.09.28|taku

あ、そうだね。 確かにジャーナリズムは「真実」って要素があるね。 難しいのが、真実の定義で、記録者の価値観を反映していないとしても、そもそも「真実」はコンテクストにローカルなものだから、コンテクストを変えても信憑性を保つ真実というのは存在しない気がする。 ただ、ある真実を違うコンテクストで「試せる」ように、ジャーナリズムが架け橋をしてるって考えると、確かに、「より信憑性の高い真実」を発見するツールになる。

にしても、ジャーナリズム=ニュースと思われがちだけど、それ以上の勘違いはないと思うね。 ニュースほど政治色が濃いものはないと思う。 日本はまだいい方なのかもしれないけど。

世界を変える力ね。 この、変化に関する考えって、ものすごく重要だよね。 なんか、omnifaceですでに何度もあがってるけど。 なんて言うんだろうね。 一昔はパラダイムシフトってうるさかったけど、なんというか、シフトが起きて、それを現実的な行動に結びつけるまでの行程をも含めた総合的な「変化」だよね。 「問題解決」というわけじゃなくて、「理想を現実化する」的な。 うーん、最終的には「改善」の科学になるのかな。

2007.09.29|ken

パラダイムシフトは意識(価値観の変容)までの変化しか示していなくて、実際は、ケンの言う通り日常の行動まで変化しないと意味がない。でも、その為には、ヴィジョン(≒理想)が必要なんだよな。或いはヴィジョンを持つための思考力・想像力・想像力というか。ただ、そのヴィジョン(≒理想)の妥当性の測り方も難しい、賛同者が多いことも一つの基準かもしれないが…、その賛同者のレベルにもよるからね。
難しいところ…

2007.09.29|taku

何かいろいろ取り込んでて書きっぱなしになっていた間に2人が議論を深めていてくれて有り難い。

僕の思うジャーナリズムとは、こう考えています。
身近な真実を伝えること(敢えて自分を対象の身近に置いて真実を伝えることも含む)

なので、ケンの言う、ジャーナリズムはニュースとは違うということはその通りだと思う。
ニュースは、所詮、他人事だからね。
他人事で伝える事実なんて、いくらでも作ることが出来て、それがプロパガンダだったりする。

そして、タクちゃんの言う、"ジャーナル"的な発想もその通りでしょう。毎日→日常→身近だからね。


パラダイムシフトは確かに価値観の変容を示すに過ぎないけど、
そういう中では、僕は広告とかって、非常に危ない所を扱っているなと思う。

現状=真実を受けて、もっとこうしませんか?というスタンスの広告って多いと思うんっだけど、その「こうしませんか?」に何か異質の恣意が含有されているとすると、そりゃとんでもないことにつながり兼ねないと思う。

その恣意が、本当に人のためになることならぜんっぜんOKなんだけど、
概して広告なんて、そうじゃないじゃない。

「オール電化」という、コンロをガスじゃなくて電気にしたりすることで、光熱費を削減しながら省エネな生活を送りましょう、それって、今っぽくてかっこいいじゃん!みたいな広告が、
日本では最近一層増加しているんだけど、それって、実は原子力発電の稼働率向上とその正当性主張のための国策であって、光熱費削減云々は表層的なプレゼンに過ぎない。
実際、光熱費を削減すれば、一般市民としては環境に良いのじゃないか?と思えてしまうんだけど、実はCO2排出はガスに比べ、電気の方がその生成過程で多い。

原子力発電の稼働性向上に関して、もっと詳しく言えば、
原子力発電所は、常にその稼働において、100%の電力生産を行うことが重要で、生産効率を下げると原子力が不安定になってしまう。
それゆえ、効率よく作りましょう&作ったものを効率よく消費しましょうということであり、かつ、賛否両論ある原子力発電の一方的正当化を進める理由となっているということ。

最近、I-MAGE6の講義にて、アースディの池田氏の話を聴いて、改めて、オール電化ブームに対する懸念を思い出してしまったので、書きました。

こういう情報の真偽と真義を読み解くのが、メディアリテラシーであって、ジャーナリズムが事実を伝える技術だとしたら、メディアリテラシーは事実を読み解く技術であり、コインの表裏みたいなものだな、と思った。

2007.09.30|ikeponia

ジャーナリストが「何故~までするのか」は、ジャーナリスト間の競争原理で説明されると部分が、結構あると思う。彼らの世界では、①いかに入手困難な素材を②人より早く、提出できるかの競争原理が働いている。

「真実」についてはまったくKenの言うとおりだと思う。真理は時代により、場所により、人により異なる。

たとえばフランス革命を起こしたのは「臣民」なのか「暴徒」なのか、どちらの単語を選んでいるかによって、暗々裏に、自分が王制側なのか共和制側なのかを示唆している、なんてのも有名な話。

そうすると、ジャーナリストが映像を獲得する目的としては、
①映像時代が情報になると考えられている場合(長井さんはたぶんこっち)
②何らかのメッセージのRationaleとして映像が必要な場合

①の場合は、真実じゃなく事実を伝えている。

2007.10.01|Iku@昼休み

ジャーナリストが「何故~までするのか」は、ジャーナリスト間の競争原理で説明されると部分が、結構あると思う。彼らの世界では、①いかに入手困難な素材を②人より早く、提出できるかの競争原理が働いている。

「真実」についてはまったくKenの言うとおりだと思う。真理は時代により、場所により、人により異なる。

たとえばフランス革命を起こしたのは「臣民」なのか「暴徒」なのか、どちらの単語を選んでいるかによって、暗々裏に、自分が王制側なのか共和制側なのかを示唆している、なんてのも有名な話。

そうすると、ジャーナリストが映像を獲得する目的としては、
①映像時代が情報になると考えられている場合(長井さんはたぶんこっち)
②何らかのメッセージのRationaleとして映像が必要な場合

①の場合は、真実じゃなく事実を伝えている、と思う。

2007.10.01|Iku@昼休み

ほほう、真実と事実って言葉が並ぶとイメージがよりはっきりするよね。

事実が真実に変わる瞬間は、結局解釈であったり、比較であったり、なんらかの相対的な要素が加わるわけであって、その結果、真実は他のものに依存することになる。 事実の場合は、それ単体では意味合いをあまり持たないわけで、普遍性がある無いとかそういう問題の前に、それ単体では価値をもたない。 ある価値観体系に事実を当てはめることによって、価値を帯びさせることによって価値が発生する。

だから、結局、普遍的な真実は真理を語る反面、状況に依存するし、単なる事実は状況から独立してる反面、単体で価値が発生しない。

話が少し遠ざかったけど、ジャーナリズムの話に戻ると、結局、ジャーナリストは「事実」を記録するのが根本的な役割で、彼らにしか記録できな「事実」を、その時代、環境、状況に当てはめて「真実」を見いだすのが、聴衆の役割なんじゃないかな。 ただ、やや機械的な感じがするけどね。

現実的に、「事実」のすべての要素を記録するのは無理で、主観価値観を通った情報は、少なからずある程度は「真実」的な要素を含んでいるわけであって、最終的には「たくさんの真実」から「事実」を逆算しないといけないのが現状だと思うけどね。

2007.10.03|ken


>結局、ジャーナリストは「事実」を記録するのが根本的な役割で、彼らにしか記録できな「事実」を、その時代、環境、状況に当てはめて「真実」を見いだすのが、聴衆の役割なんじゃないかな。

それと、

>現実的に、「事実」のすべての要素を記録するのは無理で、主観価値観を通った情報は、少なからずある程度は「真実」的な要素を含んでいるわけであって、最終的には「たくさんの真実」から「事実」を逆算しないといけないのが現状


その通りだ・・・
でも、結構難易度高いよな、これ。
一般視聴者には酷かもしんまい。
やっぱ、メディアリテラスィーー大事かもぉ??


あと、イクちゃん、いいねぇ〜。
(昼休みにこんな頭脳を使わせてしまって、すまそ)

ちと、敢えてレスの順番を変えてみたんだけど、
www.otogokoro.comでやってもいいんだけどさ、
ちと、みんなの意見を聞きたいのは、
音楽はメディアだって言われることあるじゃない?
そこに真実や事実が介在することってどんなもんなんだろうね。
つまり、ジャーナリズム的なものが、音楽として存在するのか否か。

もちろん、エンタテインメントとしての音楽って、
それとは、異次元なものであり、引き合いに出すのも
変だと思うんだけど、音楽がメディアであるとするならば、
ジャーナリズム的なものも存在し得るのかなって?
よー自分の中でも整理が付いていないネタフリで
すいません(笑)

2007.10.03|ikeponia

もう一回整理すると、

①なにからなにまで嘘で、真実を伝えているものがある。
 (Shakespareの戯曲。Fictionによって、真実(人生や恋愛の)を伝えている)

②事実によって、真実を伝えているもの
 これは質の高いドキュメンタリー。
 実際の映像(これは事実だ)によって。

③事実によって、嘘を伝えているもの
 リアルな映像は、確かに「事実」ではあるが、それをつなぎ合わせることで嘘のメッセージを伝えることが、マスコミと政治家によって行われている。

 曲者は③だね。

2007.10.03|Iku

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